Fri 180330 ぐるぐる更新/模様編4/好きな模様・エピソード/宇宙ビールのウリ

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   本日の宇宙ブログ「ぐるぐる更新・模様について」は、中野が更新いたします。

 

   模様やデザインには疎いままずーっと来てしまったので、今までほとんど「図柄」というものに着目してこなかった。人がどんな服装をしていても、「ふーん」。どんな建築物を見ても「ふーん」。どんなにシャレた写真集をめくっても「ふーん」。しまいには、金沢の超有名観光地「兼六園」を見ても「ふーん」。なにを見ても筆者は退屈なのだ。

 

その中で、感激したものが二つだけある。

 

①太陽の塔
②ボーダー柄

 

①太陽の塔については、最近ようやく内部公開が再開されたところであるし、好きだ、という人は少なくなかろう。筆者は子供自分からずっとナマで見たい見たいと思っていた。東北の田舎で育ったため、なかなか大阪に行く機会を得られず、大学進学するまで待たねばならなかった。けれども、近くに来たら来たで、なかなか行かないものである。遠いところにいたらいたで行かないし、近いところに来たら来たで、やっぱり行かないのだ。やきもきしても人は怠惰なものである。

 

   ようやく太陽の塔を見た時にはもう30代も半ばに差しかかろうとしていた。大きさに圧倒されたのと、なかなかに気味悪くうつって、でもどうしても嫌いになれない素っ頓狂なところがあってそれがクセになってしまい、何度でも見にいった。「模様の話と何のカンケーがあんだよ?」と言われそうだが、筆者が特に好きなのは、この太陽の塔の両サイドにある赤いニョロニョロ。これが好きなのである。

 

(筆者のスマホにも直に撮った写真が入っていたけれども、肖像権の問題がのしかかるため、ただのスクリーンショットを載せてみる。)

 

   こういう模様、何というのかね。無知な筆者は言葉が出てこない。ま「太陽の塔の赤いニョロニョロ」とそのまま呼ぶことにしよう。あんまり好きなので、こういふものを持っている。

 

(太陽の塔の赤いニョロニョロの手ぬぐい。縦に撮ったハズが、どうしても横向きになっちゃう。)

 

   なぜ好きなのかは、「太陽の塔の模様だから」。じゃあなぜ「太陽の塔が好きなのか」と問われれば、ちょっと怖いから。気味悪くて素っ頓狂なんだけれども、ちょっと怖い。夏の夜中に見てみたまえ。お目目を光り輝かせながら、プロジェクションマッピングまみれになって、それでもじーっと立っている。綺麗は綺麗なんだけれども、少々ゾッとするものがある。そう、ゾッとするところがあるから、何度でも見に行ってしまうのだ。

 

   さて、好きな模様の②は、「ボーダー柄」である。今ではすっかり着なくなってしまったけれども、ある一時期は、あれもこれも気づいたらみいんなボーダー柄であった。こだわりがあるのではなくて、気づいたらこれを選んでいる。ボーダーを選ばなくなって、筆者の服はひたすら青ばかりになった。靴も青。上着も青。ズンボも青。ボーシも青。リュックまで青。そういう出で立ちにさらにマスクをつけてウロウロするからかよくガードマンさんに止めらる。

 

   ま、青にしろ、ボーダーにしろ、「無難」なのであろうと思う。無難だから選んでしまっているだけ。でも、ボーダー柄がなぜ好きなのか、心当たりがある。ボーダー柄についてちょっと調べてみると「囚人服から来ている」のだそうだ。うむ、なにも驚きはない。ボーダーで囚人服。我々の世代はその概念で育って来たではないか。ボーダーで囚人と言えば、これしかないであろう。

 

   (囚人コント。他に有名なものには、母ちゃんコント、学校コント、そして剣道コントがある。世代の人間にとってはたまらないラインナップである。ボーダーといえば囚人コント。)

 

   いまだに何度でも見てしまうけれども、この丁々発止のやり取りは、何度見てもお腹を抱えてしまう。囚人コントには二つのバリエーションがあって、いかりや長介が囚人のリーダーのこともあれば、牢屋の看守という立場の時もある。筆者は、ツッコミが冴え渡る後者の大ファン。看守が席を外した隙に、高木ブー仲本工事加藤茶志村けんがお馴染みの役回りで、どうにか牢屋から抜け出せないか奮闘するのであるが、いいところでいかりやが帰ってくる。「悪いことしてるんだけど先生に見つかるかもしれなくてハラハラドキドキ」というあの感覚と似ているのだ。

 

  さて、好きな模様とその理由、エピソードは以上である。ここからは、本公演の意気込み・宇宙ビールのウリについて書いておこうと思う。

 

「本公演は模様を生かした芝居をやります」と猿渡さんから発表があった時、なんて面白いことを思いつくのだろうと思った。模様にはそれぞれ歴史があって、例えば上にあげたボーダー=囚人というのもそうであるけれども、例えば役者がその模様を纏えば、それで一つの記号になり得る。模様を掲げることによって、場が転換され得る。模様の多様性と意味とつなげることによって、役者の芝居の幅も作品自体も広がりやしないだろうか、と思ったのだ。戯曲を立ち上げるやり方ではなくて、模様から掘り下げてみる。この辺りは鋭意執筆中の御本を拝読してみないことにはなんとも言えないのだけれども、そういう楽しみがある。

 

   最後に「宇宙ビールのウリ」であるけれども、これは個人のブログに昨日書いてしまったばかりである。宇宙ブログからそちらに誘導するのは筆者の芸風ではないので、思い切って引用してみようと思う。

 

   しかし、宇宙ビールテイスト(?)というものは、何も説法しようというのでは全くない。伝えたいことを押し付けようとするのではなくて、この「メッセージ性」というのは、「表現する側の立場を明確にするためのもの」である。どの立場からモノを言うのか、上演している時に表現者はお腹をどことつないでおくのか、どことつないでいるからこの表現をするのか。


   何のために今回の作品があるのか、これを絶えず確認し続けて、少なくとも「単なる表現をしないようにしよう」というもの。「ただ表現をやる」ということにちょっぴり疲れた表現者が集まって、何か意味のあることをしよう、何か役に立とう、そういう心で作品を作ろうとしている。いや、作品作り、というよりも、「活動」に近い。


    宇宙ビールテイストの「メッセージ性」というものは、何かをお客さんに植え付けようとするものではなく、表現する側にとってこそ大切なものなのである。何か意味のあることをしたい。表現のウマいヘタではなくて、クオリティの高い低いではなくて、専門性のあるなしでなくて、「活動」と呼べるようなことをしてみたい。


   我々役者というのは、物語の面白さや演出の妙にあぐらをかいていい気になってしまいがちだけれども、それは作演出の庇護下にいるから思えること。作演出の傘の中にいさせてもらえるからに他ならない。作品の面白さを自分達役者の力であると勘違いしてはいけないのだ。だから、そこからもう一歩踏み出して、自分たちの存在意義を見つめ直して、例え作演の傘に入っていなくても「僕らだけでも何かしらひとさまのお役に立てるのではないか」という、ちょっとした反抗心とロマンの現れが、この「メッセージ性」であり「活動」なのである。

 

   だから、宇宙ビールには厳密な作演出専任はいない。役者を含めたパフォーマーだけがいる。「パフォーマーだけいても本番なんか成り立ちませんよ♨」というイジワルな正論を口に出してから入ったような気がするが、一癖も二癖もありそうなメンツが揃っていたので、それで入ったのだ。やったことがないことが出来そうであったから入ったのだ。

   長くなりました。本日もありがとうございました。